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​宇川の概要

​京都最北端の地宇川

“宇川”は、京都府北部京丹後半島に位置し、
東西約35㎞、南北約30㎞の広がりを持ちます。
京丹後市の中でも、最北端部にある旧丹後町の中にあり、
日本海側に面する農山漁村です。
宇川地区がある京丹後市は、広大な日本海と
丹後半島の豊かな山々に囲まれた自然豊かな
土地に恵まれており、沿岸部は山陰海岸国立公園、
丹後天橋立大江山国定公園に指定されています。
​夏には、海水浴場の観光客で大きな賑わいを見せています!

さらに、内陸部には標高400~600mの山々が連なっています。

 「宇川」は、京丹後市大宮町と宮津市を流れる
宇川水系の二級河川です。上流部は京丹後市弥栄町
や宮津市世屋、下流部が京丹後市丹後町を流れており、
全長は17.89㎞あります。
流域面積は、54.2㎢であり、丹後半島で見ると
竹野川に次ぐ規模になっています。
この「宇川」が、河川の名称としてだけではなく、
宇川下流地域と東隣の吉野川流域一帯の地名としても
使用されています。

“宇川”とは

「宇川」の位置

人口・面積

 宇川地区は、それぞれ7地区によって成る上宇川と下宇川
分かれており、合計14の集落に、男性581人、女性612人の
計1193人の人たちが暮らしています。(2020年11月16日時点)
京丹後市の全面積は、501.84㎢で、
その中にある宇川地区自体の面積は、143.4haあります。

​ちょこっと歴史

古代

古代において日本にはいくつかの地域国家が存在しているとされています。

その中でも、古代の京丹後市にはかなり大きい王国があったと考えられ、

門脇貞二が1983年に唱えた「丹後王国論」は大きな反響を呼びました。

遺跡からも昔に大きな王国が存在していたことが想像できます。 

 また京丹後は、皆さんがよくご存じの聖徳太子とも深い関係があります。

6世紀末、聖徳太子の御母で穴穂間人(あなほべのはしうど)皇后は、

蘇我氏と物部氏の争乱を避け、この地に身を寄せたと伝わります。村人たち

の手厚いもてなしへのお礼にと、この地を去る際に、皇后は自らの名

「間人」(はしうど)をこの地に贈りました。しかし、恐れ多いと考えた

村人は御退座にちなみ間人(たいざ)と読むことにしました。

この伝説をもとにした母子像が日本海を眺めるように後ヶ浜(ほちがはま)

に佇んでいます。この間人には「立岩」という1500万年前にできた柱状の岩

があり、日本でも数少ない玄武岩で出来た天然石があります。

この立岩も聖徳太子と少し関係しています。

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鎌倉時代には、10世紀以降に荘園制が成立していきますが、合計25の

郷・保・荘園があったとの記録があります。奈良時代に行基が開いたと

伝える浄土宗の古いお寺である本願寺本堂は、丹後で最も古い木造建築

であり、鎌倉後期のものとみられていて、檜皮葺の屋根がゆるやかな

曲線を描く美しい建物です。建武3年(1336年)に、足利尊氏が一色藩光を

丹後の守護に任命し、統治されます。1583年記ます『丹後国五壇家帳』

から一色氏を頂点に、各地に城持ちの「城主」が点在していたことが

分かります。また、戦国時代には多くの山城が築かれました。

中世宇川の河口部には平荘が所在したと推定されますが、平庄は与謝郡で、

宇川中流から上流の野間地区はつい最近まで与謝郡でだったのです。

飛び地のように与謝郡平庄があったのか、それとも海岸部は地続きの与謝郡で、

山間部に宇川庄があったのか…。

宇川上組・下組の呼び方は東部の与謝郡側からの呼び名と思われ、古くは竹野郡よりも

与謝郡との繋がりが強かったような名付け方のように思わるのですが、未詳です。

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中世

近代

天正 7 年(1579 年)、織田信長が明智光秀、細川藤孝・忠興親子に丹波丹後の

平定を命じて、細川藤孝・忠興親子が一色氏を支配下に置いて丹後を

支配することとなりました。しかし、天正 8 年(1580 年)には、細川氏は、

支配下の一色氏を滅ぼしその後、20 年にわたって細川氏が丹後を支配する

こととなります。本能寺の変の際、細川藤孝・忠興親子は明智光秀より

味方となるよう求められますが、細川藤孝はこれを断るだけでなく

家督を息子の忠興に譲り、舞鶴の田辺城へと隠居しました。

この時、細川忠興は、明智光秀の娘で自身の妻である、玉子(細川ガラシャ)

を弥栄町味土野に閉じ込めたのです。京丹後市弥栄町味土野にある、

隠棲地(女城跡)は、御殿屋敷(みどの)と呼ばれ、谷を挟んだ

向かいの丘陵は「男城跡(おじろあと)」と呼ばれ、玉子に付き従った

家来達の居城のあとと言われています。玉子は、この時に従った侍女・清原マリアの

影響でキリスト教に救いを求めるようになり、後に洗礼を受け「ガラシャ(神の恩籠)」

の名を授かりました。味土野の地名は現在でも弥栄町に残っていて、

「ガラシャ米」などをつくり地域おこしをおこなっている。

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